不知の声

-しらずのこえ-


いつかその思いを知る

不知の声









 いつかその思いを知る。

 不知の声。





「ここは湯治場でも何でもないんだがね、関口君」

 形のよい細い眉を僅かに吊り上げ、読んでいた本を閉じる。

 私ときたらそれでも身体を横にしてごろごろしているのだから、京極堂にとっては邪魔な物体以外のなに

ものでもないかも知れない。

 私は関口巽、一応小説家という生業をしているのだが現在、

「ネタがなくて困ってるんだよ、何かいいネタはないかい? 京極堂」

「また、そういって人をネタの坩堝の様に……」

「何言う、君はすばらしいネタの坩堝だよ、そして書痴としてもすばらしいと思う」

「そんな煽ては通用しない。そんなことを言う前に、家に帰って真っ白な原稿用紙を目の前に置いたら、そ

の頭を捻り、小話のひとつでも思い浮かべた方が堅実というものだと思うがね」

 まったく。

 そのとおりで何も言い返せない。

「とにかく、今日はこれで帰りたまえ。今日はこれから私も妻も出かけるのだ」

 普段出かけるくらいでは気にもしないくせに、なぜか今日に限ってそう言ってぐうの手も出させぬ京極堂

を尻目に、私は彼の家を後にした。

 しかし、本当にネタがないのだ。

 書きたいネタがないということは、文士たる者としては一大事であり、〆切と言うものが刻一刻と近付いて

来ているわけだからタチが悪い。

 そう、私は仮にも文士たる者なのだ。

 意地でも何か、どこかから、何でもいいからネタを仕入れてこなくてはならない。

「ああ、やっぱり生活のためとは言え、カストリで書くのはこれで最後にしないと……」

 如何なる内容の〆切が近付く度私は、この言葉を何度口にしたか知れない。

 しかし私のように小風ひとつで心が揺らいでしまうような男に、その誓いめいた言葉は無意味なもので。

 明るい日差しの中、今の私には眩し過ぎる太陽を見上げた。陽炎が立つほどの強い日差しを、私は目を細

めて見上げる。

 〆切に関する焦燥感など、実のところを言えばないのだ。

 ネタがないからといって、それを口実にはしているけれども。

 眩しい太陽光を、私はこの世の中で一番の強者にでもなったかのように見上げてみた。

「……何を、書こうか」

 私のその姿は、周囲からしてみれば降り注ぐ太陽光をぼんやりと見上げているようにしか見えないだろう。

 じりじりと剥き出しの皮膚を焼き付けるその光に、私は眩暈坂を降りながら色々な思いを巡らせた。





「関君! そこの猿っ!!」

 背後から聞こえる聞き覚えのある声に、私は振り返る。

「エノさん」

「関君、単刀直入に言うが…お前、大丈夫なのか?」

「は?」

「僕の欲しい答えは「は?」ではない、大丈夫なのかと聞いているのだ」

「は、はあ。大丈夫ですけれど……エノさん、どうしてここに?」

「それは僕の台詞だぞ、猿」

 私はその一言に添えられた掌の指す辺りを見渡した。

 見覚えのある三階建ての建物、大きな銅版に書かれた『榎木津ビルヂング』の文字。

「僕に用事があったのではないのか? 猿」

「え、いや。そんなつもりじゃ」

 待て、本当に今の今まで私は眩暈坂を永遠と下っているつもりだったのだ。

「つもりも何も、猿の足はどちらに向いている?」

 私は自分の足元を見ると聞き足である右足が、真っ直ぐ三階を目指して階段を上ろうとその一段目を踏み

しめているではないか。

「あっ…」

 そんな私を見て榎木津は穏やかな微笑を浮かべると、私の腕を軽く引いて軽快な足音で階段を上って行く。

 何も聞かずに。

 私の腕を引く彼の手は温かく、優しい感触だった。

 榎木津は探偵社のドアを開くと、いつもの応接セットに座るよう進めた。

「今日は和寅が不在で助手がいない、僕がお茶でも入れるとしよう」

 今宵は台風が来るに違いない。

 榎木津が恐ろしく、普段ではありえないようなことを言っている。

 その恐怖を飲み込んだ私は水周りに姿を消した榎木津に「あの、お構いなく…」と呟くと、思わず苦笑し

た。

 あの、お構いなく…

 そう言った私の言葉の中に支離滅裂な部分を認識したからだ。

 お構いなく、だけでいいのに、その言葉に「あの」という言葉を入れるだけでまるで本当は構って欲しい

んだと言わんばかりではないか。

「まったく、私ときたら……」

 自嘲気味な笑みを浮かべる。

「何が僕ときたら、なんだ? 関君」

 榎木津はその手にお茶を乗せたお盆を持って、私の前に腰掛ける。

 今日の榎木津は本当に不思議である。

 行動が理性的で、突拍子のない行動や言動をとらない。

 普段入れもしないお茶を入れてくれたり、いつもは探偵としての威厳を保つためには必要(?)と座りもしな

いソファーに腰を降ろす。

「構わない、ゆっくりしていくといい」

 そう言って香りのよい紅茶を私の前に差し出した。

「ありがとう御座います、エノさん」

「礼を言われるほどではないさ」

 私は人に優しくされると、どこからともなく不安が束になって奇襲をかけてくるものだが、今日はそんな観

もない。

 穏やかな微笑を浮かべて、黙って私のそばにいてくれる榎木津。

 時に私の他愛のない言葉に、彼はその笑顔を崩さず答えてくれる。いつもの彼は、それにやたらと厳しい言

葉や突込みを返すのだが、今日はそれもなく。

 なんてことはない私の話に、ただ、ただ、相槌を打つ。

「それは災難だったな」

「まったく災難も何も、カストリの仕事は単発で入ってくるから仕方ないと思うんですが、今回はいきなり三

本も入ってきて。鳥口君のお願いだし、断ることも出来なくて」

「無理はしないように、関君。君はいつも何かと無理をするから」

「そんなことはないですけど…。でもいきなり三本もカストリの仕事が入ってきたのは初めてで…何をどう書

いていいものか、わからないんです。まさか書き貯めしろって言う素振りでもないですし」

「どんな仕事であれ、仕事が増えるのはいいことだ」

 そう言ってティーポットに手をかけると、すっかり空になった私のティーカップの中に紅茶を注いだ。

 辺りに漂う、オレンジのような柑橘系の香り。

 湯気の向こうに窺える、穏やかな榎木津の微笑み。

「…いい、香りですね」

 紅茶を注がれたティーカップを私なりに持ち上げ口元まで運ぶと、それまでの会話とは関係のない言葉を呟

いた。

「そうだろう? 英国のお茶なんだ」

「なんだか落ちつきます」

「そうか、それはよかった」

 ずっと、心ゆくまでゆっくりしていくといい。

 榎木津は心の中で呟く。

 捨てられた動物のように空を仰ぎ見ていた関口。

 何か優しい言葉を、安心のために口にする言葉を、今日の彼に言いたくなった。

 その思いが何処からくるものか、榎木津は知らないわけじゃない。

 香りの中に漂う思いと、笑顔の裏に隠された微妙な駆け引き。

 それに関口は気が付くこともなく。

 密やかに。

 榎木津は発する言葉の中に、その思いを散りばめる。

「なんだか…この香り、エノさんの雰囲気と合ってる」

「そうか?」

「エノさんからはいつもいい香りがするから…」

 このご時世に榎木津はその身にまとう香水を、一時も離さず愛用していた。

 異国のなんと言う香りだったか。

 それはもう使っている本人も忘れてしまったが…

「嬉しいことを言うな、関君。これは…」

「このお茶のせいですか?」

 答えを待たずに発せられた私の言葉は、榎木津の意表をついていたらしい。

 整った綺麗な表情に配置されているその目が僅かに見開く。

「…お茶のせいとは、不思議なことを言うな関君」

「だって香りの強いお茶は、引用する人の身体の内部からその香りを漂わせるというじゃないですか」

 私は当たり前だと思っていたことを呟く。

「そうなのか、それは知らなかったぞ」

 榎木津は笑顔でそう答えるも、その知識が誰からの請負であるか考えた。

 脳裏に浮かぶのはただひとりではないか。

「中国ではよく言いますよ。楊貴妃はそのために1日20kgもの茉莉花茶を常用として飲用したり、料理に入

れて食べたり、風呂に入れたりしていたと」

「そうなのか」

 己の中にある思考を停止し、榎木津は自分のスーツの袖口を己の鼻に押し当てその香りを聞く。

「このお茶の香りに、確かに近いかもな」

 鼻が聞く榎木津はそう言うとその袖口を私の鼻元へ差し出した。私はその袖に鼻を持っていく。

 確かに、同系の香りのような気がする。

「似ているだろう? 普段から使っている香水なんだ、ミドルノートかラストノートが柑橘系なのかもしれない」

「ミドル…ラスト? なんですか、それ」

「ああ、香水は大きく分けて三つの香りに変化するんだ。最初はトップノート、中間の香りはミドルノート、香り

が消えること漂ってくるのがラストノート」

「へぇ…」

 知らなかった知識だ、私はその知識を許容量の少ない脳内に押し込める。

「この紅茶は、確か…待ってくれ、今缶を持ってくる」

 そう言って席を立つと水周りに行って紅茶缶を手に戻って来た。

 記されたスペルを榎木津が読みあげる。

「ああるぐれいそんぶりん、そう書かれてる。原産国は、印度、英吉利、茶葉、香料、べるがもっと…とな」

「エノさんの使っている香水の名は?」

「何と言ったかな…いつもビンを持って買いに行くからな。ああ、それもビンを見れば書いてあるじゃないか」

 そう言って書斎の引き出しの中から愛用の香水ビンを引っ張り出してきた。

 シンプルな形の透明な香水ビンに入った琥珀色の液体が、ゆらゆらと揺らめく。その琥珀色は、榎木津に目の色

と似ていて私は視線を逸らすことが出来なくなる。

「ポーチュガル…ベースはシトラス?」

 榎木津はラベルに書かれた細かな文字を解読していくと、私に香水便を差し出す。

「関君、お前は何だった?」

 記されたスペルを指差して問う。

「は? 何がですか?」

「専攻、旧制高校時代でも大学の頃でもあっただろう、語学専攻が。仏・英・独・蘭だとか、あっただろう」

「あ、それなら…当てにしないで下さい。僕には読めません」

 私は苦笑してビンを榎木津に渡す。

「フランス読みなら…ポーチュガルかポーテュガルなんだと思うんだが…ああ、こういうときにあの本馬鹿が

いたらなぁ」

「そうですね、京極堂なら読めるかも」

「まったくだ…」

 ビンに書かれた仏語なのか英語なのか、それらが入り混じってわからない言葉を榎木津と眺める。

 私はそのラベルの横から見え隠れする、琥珀色の液体をもう一度眺めると、見れば見るほど似ている榎木津の

瞳の色を見つめた。

「エノさん、この香水はエノさんの雰囲気とよく合ってますよ。エノさんと同じ目の色…琥珀色の香水ですね」

 榎木津はいきなり言われた私の言葉に、本人曰くおそらくは神の様に微笑んだ。

 私は榎木津のその態度に失言をしてしまったのだと思い、いつもの調子で何か言われるのではないかと一瞬身

構えたが、榎木津は黙って香水の上蓋を取り、私に向かって香水を吹きかける。

「な、何するんですか? いきなり…」

「神からの贈り物だ、快く受け取りたまえ関君。もうひとつおまけもつけよう」

 そう言ってもうひと吹き。

 あたりに漂う香りはシトラスの香りだそうだ、そのさわやかな香りと私は似つかわしくもないと思うのだが、

どうだろう。

「あの、この香り…僕には似合わないんじゃ…」

「いや、大丈夫だ。ラストノートのオレンジは君に似合うよ」

 優しい眼差しを向けられ、私は拍子抜けする。

「は、はぁ…」

 本当にいつもの調子じゃない榎木津に、何と言っていいのか私は言葉を失う。

 本当に、何だかこうの調子だと調子が狂う。

 この榎木津に、速攻で性格を改訂させるようなことが何かあったのだろうか?





 夜半まで榎木津と色々な話をし、いつもの骨休めに足を向けることになった私と榎木津は、すっかり夜も更け

て暗くなった眩暈坂を上がる。

 骨休めの看板の横を通り、引き戸を開けると榎木津が開口一番に叫んだ。

「おい! 本馬鹿! 神がお供を連れて遊びにきたぞ!」

 いつもの調子に戻ったのか、挨拶もそこそこにどかどかと足音を立てて居間に向かう、私も本当の供のように

その後ろに付き、千鶴子さんへの挨拶を交わす。

「夜分遅くにすみません」

「いいえ、構いませんよ。あの人は本を読んでいれば昼も夜も関係ないですから。今お茶をお持ちいたしますね」

 そう言って優しく微笑んでくれる。

 まったく、出来た奥方だ。

「おお! 千鶴ちゃん、お構いなく!」

 榎木津は笑顔でそう答えると豪快に居間の引き戸を乱暴に開け、京極堂を見た。

 私はお昼、ていよく追い払われた身として何だか落ちつかないのだが、榎木津にとってはそんなこと自体どこ

吹く風なのだ。

「本馬鹿、遊びにきたぞ! 相手をしろ!!」

 京極堂は榎木津のいつもの態度に眉を顰めるが、通常状態の榎木津はそんなことを気にする男ではない。

 以前、何分神はこだわりを捨てねばならないと迷言していた。

 かく言いながらも、この世の中である意味一番こだわりを持っているような男がそう言っても、その真意は大

変怪しいものだが。

「どうしたんですか? エノさん、こんな夜分遅くに」

「だから遊びに来たんだ、お供を連れてな」

 榎木津は目配せで私の方を見ると、京極堂も私を見て大きなため息を付きまたそのまま榎木津に向き直る。

「…ところでエノさん、今日は一段と香水の量が多いのではないですか」

 鼻につく、柑橘系の香りに微妙に眉を顰め京極堂が問うた。

「そうか? いつもと変わらないぞ」

 いつもの量が二人分だから、香りはいつもより強く感じるかもしれないがなっ!

 榎木津は最後の言葉は心中で呟き、香水ビンを差し出す。

「本馬鹿、これを読んでくれ」

 いきなり差し出され、受け取るように促された香水ビンを京極堂は受け取るとラベルを眺める。

 いきなりの展開に京極堂が驚きもしないのは、榎木津がいつも突拍子のないことをすると、知ってのことだ

からだろうか。

「これは仏語ですね、PORTUGAL…『ポーテュガル』だと思います」

「それは分かっているんだが本馬鹿、その裏に書かれている言葉を知りたいんだ」

 榎木津はそう言ってラベルの裏を指差した。

「Citrus、sweet orange、bergamotte、1930、G、4711MUELHENS…この香りはシトラスノートで、スイートオレン

ジ、ベルガモットからなり、1930年、ドイツ、4711MUELHENSより発売」

 ラベルの裏を覗き込もうと私も京極堂のそばに歩み寄ると、京極堂がその顔を上げた。

「やっぱりすごいな、京極堂は」

 京極堂のそばにしゃがみ込み、思っているそのままの感想を呟く。

「まったくだ、さすがは本馬鹿。この頭の中に渦巻く知識は今まで読んだ本全てで構築されてるの違いない! 大

儀であった、わはははははは!」

 榎木津は笑いながら自分の肘を枕に身体を横にした。

「本当に読めなかったんですか? エノさん」

 京極堂は香水を榎木津に差し出すが榎木津はビンを受け取らない。

「ああ。そんな言葉の読み方、とっくの昔に忘れたさ。それは受け取れ本馬鹿、お前に特別に遣わせてやろう」

「そうですか」

 京極堂はその眼差しに諦めを含み榎木津を一瞥すると、私に向き直る。

「ところで関口君、原稿の進み具合はどうだね?」

「もうネタは出来たから後は書くだけかな」

「そうか」

 無表情でこちらを見ている京極堂の眼差しが痛くて、私は曖昧に京極堂を見た。

「関口君」

 京極堂にそう呼ばれて「何だい?」と小さく返事を返す。京極堂は不意に私の首筋に額を寄せ、静かに深呼吸した。

 優しく漂う、オレンジの香りに京極堂は苦笑する。

「言葉とは、何も耳に聞こえる言葉だけがすべてではないのだよ。関口君」

 その身に漂う香りに京極堂はそう呟くが、私は首を傾げる。

「何のことだい? 京極堂」

「いや何…エノさん、やはりこれはお返ししますよ」

 そう言って香水ビンを榎木津に手渡す。

 榎木津の穏やかな微笑とその身から香るその香り、不知らず間に声となりそれを表す。



 加筆修正 2007.7.20








 不知と書いて、「しらず」と呼ぶ地名が御座います。

 そこは荒れ狂うような日本海のある地域の名前がそう読むのですが、言葉の語韻が好きで使いました。

 しかし、その地名と本編とは関係が無い話ですねー。

 いや、格好のイイ榎木津さんを書こうとして、失敗したんです。

 次こそは、格好のイイエノさんを!