『翡翠』 |
ぼんやりと呟いた。 「雨だ…」 いつの間にか降りだした小雨に京極堂もわずかに頭を上げる。 彼はいつだって本を黙って読む、僕はその傍らに寄り添うでもなく。 いつからだろうか、こういう関係が僕の心を安寧とさせるようになったのは。 振り向く事を期待せず、ただこの時間が永遠に続く可能性を示唆して、僕はひっそりと京極堂を見つめる。 彼が俯き加減でもなく、少しだけ不遜な態度で本を読む姿。 僕はその姿に癒されている。 「…翠が映える季節だ」 京極堂は窓の外でひそやかに振る雨に向かってそういうと、ゆっくり僕に振り返った。 「今日から入梅かな」 しとしとと降る雨にそれぞれの思いを呟き合って、流れるその時間。 静かに、その時間。 その一瞬が僕には大切だった。 「翡翠ぞ降る雨、という言葉を知っているかね」 どうせ知らないだろうという感じで呟く京極堂、当然僕は知らないと首を振る。 「でもこの時期の緑は『翠』とも書くよね」 「ああ、富山と新潟の県境に翡翠が流れる川がある。その地方の語源だ」 「どういう意味なんだい?」 「雨が降れば河川の奥の境から翡翠が流れ出し、海岸に打ち上げられる。それを現しているのだそうだよ」 「へえ…知らなかった。そんなにたくさんの翡翠が流れ着くのかい?」 「ああ、境の正確な場所と埋蔵量は明かされていないが、雨が降った次の日は河川の増水のせいでかなりの 量が流れ着くらしい」 そういって懐から根付のついた財布を取り出すと、それを僕に差し出した。 淡い色合いの翡翠の形は勾玉のようになっている根付がついている。それからそれを取り外し、居間の窓 を開けた。 「見ているといい」 京極堂はそういって翡翠を小雨にかざす。 数分たった頃だろうか、頃合がよくなったのか、手にしていたそれを僕に差し出した。 手にしていたのはまがいなく、先ほどの根付。 でも。 「翡翠には雨が似合う」 淡い翡翠の色が雨に濡れるとさらに翠を増して。 「……」 「どうしたんだね関口君? 驚いたかね」 何も反応を返さない僕に京極堂が問いかける。 僕はひと時だけのまばゆさに一瞬恐怖を感じて、そっと京極堂の影に隠れた。 永遠じゃない、それは永遠のものじゃない。 濡れて艶を増した翠色。 失う怖さ。 それをいつか失う怖さ。 京極堂はその思いを理解し頷くでもそれをそっと僕の手に握らせると、静かに僕を抱き寄せた。 大丈夫だと、何も言わないけれど伝わる抱擁が。 いつか来るその日を。 永遠じゃない輝きにおびえる僕の気持ちを見透かす京極堂に、口付けを強請る。 与えられた確かな温もりに僕は手にした翡翠を握り締め。 ないかもしれない永遠に僕はおびえ、戦慄する。 なくさない。 なくしてしまうかもしれない。 「君は怖がりだね、関口君」 穏やかな声でそう言われ、僕は少しだけむっとした。 だから言い返す。 「怖がらせたのは、君だよ京極堂」 「そうだったな」 この気持ち、この先もとは限らない、そんな中で。 淡い思いの中で、それは見せかけかもしれぬ色を増し、いつかまた永遠というはかないものを追い求め る。 2003.7.3up 加筆修正 2007.7.20 |