無真 |
真っ白だ、真っ白で何もそれ以外は見えない。 真っ白で、でも決して透き通ってはいない。 真っ白なのだ。 とても心地がいい。 苦しみも悲しみも、何も感じない。 一人でその中に。 そう、僕は一人でその中に。 ―――祝福を! 祝福を! 邂逅と懐古に祝福を! どこからかそんな声がした。 そして僕はどこにもいない。 僕は、どこにも……。 何にも属さず、その中で透き通っているのはおそらく、この僕だ。 夢の中で夢を見る。 何を言われても、何をみても、聞きたくなく、知りたくなく。 両の掌で耳を塞ぎ、小さく体を埋め、強く目を閉じる。 心は正直だ、そんな僕にありのままの現を知らしめる。 後ろも前も、同じ。 ひと廻りすれば同じ、円を描いて、歪な円をひたすら、ただ。 この心を律せるまで、僕はこの透き通った身のままで、このしろの中で。 障子戸が音も立てずそっと開かれた。 彼に僕はどう見えているのだろう。 ああ、どうでも関係ない。 僕は今、しろの中にあるのだから。 だから彼を見上げなかった。 透けた僕は彼に見えていないだろうさ。 そのまま己の身を屈め、膝を抱える。 障子戸の向こうも恐らく透き通らない真っ白だ。 何故だかそんな気がした。 「やあ」 不思議だ。 不思議なのは何故、ただのしろの中にひとつの障子戸があるのだろう、それが生まれたのだろうか? もっと不思議は何故、彼は透明に透き通る僕の存在を知る事が出来たのだろう? 何故そんな当たり前の疑問が今の僕の中には生まれないのだろう? 「何をしているんだ?」 彼はそう問うた。 僕は彼を見もしない、見たって仕方が無いからだ。 彼が僕のしろの中に勝手に入り込んできたのだから。 「ここで何をしているんだ?」 彼はもう一度問うた、今度は僕の肩にその冷たな手を留めて。 白い世界、真っ白な世界であるにも拘らず、彼は恐ろしいほど眩い漆黒に、その身を埋めていた。 「関口君」 そう呼ばれて、僕は視線だけ僅かに面を上げた。 白と黒。 いや、無色と漆黒だ。 もとよりこのふたいろは、同じ。 対であり、明暗を分ける色であり、そして。 「中々どうして君は…一体何をしているのだね?」 彼はそう言うと、針金のように細い体をまるで子供に接するように僕の目線まで屈め、片膝を付いた。 何を言われても、答えられない。 ここにいる理由を僕だって、知らないのだから。 僕は視線だけ彼に向ける。 彼は僅かに溜息を付くと肩に留めていた冷たな手を引き、僕の下顎に触れて己に向けた。 「透き通ってしまって、まるで死んでいるようじゃないか」 彼にしてはやけに非現実的な物言いだと、僕は何故だか思った。 ―――死んでいる? 否、僕はここにある、何に死んでいると? ここにあるのに。 僕は面を傾ける。 「死んでいるようだと言ったのだよ、だから決して、君が死んでいるわけではない。そういうものの喩え だよ」 そう言って彼は静かに笑む。 「こんな淵に迷い込んではいけない」 何を言っているんだ? 「私が目覚めさせよう」 彼は漆黒の腕に僕を抱え込む。 僕は目を閉じ、彼の胸に面を預けた。 夢の中で夢を見る。 これが夢なら、全てに納得がいくのか? 真っ白なここも、透き通る身の己も、漆黒の彼も。 僕は彼の胸の中に竦められ、ここに来て初めて口を開いた。 「君はなぜここに?」 漆黒の彼は僕の頭を優しくひと撫でして、僕を仰向かせる。 「さあ、なぜならいいだろう」 謎かけの様に、彼は言う。 「君はなぜ、ここにいたのだね?」 僕は、そう僕は。 多分。 「自分を消し去りたくて」 僕の口は僕の意思とは関係なしに、勝手にそう言った。 何も思いはしてない。 それはどんな科学だって説明出来ない。 だけど僕は、断じてそう言ったわけじゃない。 「こんな自分は、いらぬものだと思って」 透明に、透き通ってしまえばいい。 真っ白に。 しろはしろなのに。 白は無色ではないのに。 「誰もこんな僕を、殺めてはくれないだろうから僕はここで息……」 そこで言葉を失った。 息絶えようと、死んでしまおうと―――――… なんと、他力本願なのだろう。 この身は死すらも人に委ねている。 そもそも、己を殺せと、誰かに言えるわけが無いではないか。 彼はただ静かに笑む。 「ならば私が君を殺そう」 僕は彼を見上げてその胸に縋った。 「私が君の舌を噛み切ろう」 静かな笑みを悟すように浮かべて彼は囁く。 いつもの無愛想さからは想像もつかない、優しい微笑み。 そして僕の両の掌を己の首もとへ留める。 「君はこの手で私の首を絞めなさい」 その苦しさで、その愛しさで、君の舌を私が噛み切ろう。 その最中で。 彼は僕の唇に己のそれをそっと押し当てた。 やわらかく、そっと。 僕は彼の首もとに留められた手にゆるゆると力を込める。 僕の唇をそっと撫でていた温かなものが僕の中に入ってきた、そしてゆっくりとじらすようにその歯列 を割って、僕のそれを捕らえる。 ああ、と僕は目を閉じた。 彼は苦しむでもない、そして彼は逃げるでもない。 「もっと力を入れなければ、私は死なないよ」 ついばむ様な口付けをしながら彼は囁き終えると、深く貪る様に口付けてくる。 僕の舌を捕らえて、その端を強く噛む。 「っ…」 その痛みに思わず口の端から呻き声を上げる。 口内に鉄の味が広がった。 焦らす様に掠め、脅かす様に絡め取られ。 気が付けば彼の首もとに留めていた僕の手は、彼の背に回されていた。 貪るように、その唾さえも奪い合い。 真っ白なここに彩色が配置される。 透き通って見えていた己の体が徐々に色を取り戻す。 微かに耳鳴りが聞こえた。 明るい日差しの差し込む部屋に、僕は寝かされていた。 消毒薬の匂いと、静かな空間。 ああ僕は。 目の前に黒くて細い影が見える。 「おい、馬鹿猿」 不機嫌・不遜を通り越し、尊大にでかい態度で仕立てのいいスーツを着込んだ榎木津礼二郎は僕の顔を 覗き込んでいた。 「馬鹿猿、目が醒めたか? お前は一体何をしているんだ、僕はこの中にいて仕立てたばかりのスーツを クレゾール臭くしたんだぞ! そしてお前がしたことの意味をお前自身は知っているのか? それともな んだお前はそれほど…!」 僕の目を真っ直ぐ見て主語の無い言葉を叫んでいた榎木津は、すっと色素の薄い目の瞳孔を窄める。 ほんの一瞬、時が彼の中で止まり、彼は彼でなくなった。 ビスクドールはそのままくるりと踵を返すと、漆黒の影の肩を叩いた。 「あとはお前が適役だ、本馬鹿」 そう言うと仕立てたばかりの上品なスーツには似合わぬ大またで、部屋を出て行ってしまった。 書生のような格好をしている本馬鹿こと中禅寺が、読んでいた本を閉じ、僕の側に歩み寄って来る。 「目は、醒めたかね? 関口君」 そう言って不機嫌そうな顔を少し緩めた。 「…あの、さ」 変な夢を見ていたんだよ。 僕はそう言おうとして、彼の目を見た。 「もう、自分から自分を傷付けてはならないよ関口君」 彼はそう言うと、目を伏せベッドの傍らに腰を据える。 「君に宿る無真ならば、私は幾らでも祓うがね」 僕の頭にそっと手を置いた。 「人間はそう易々と悟れる生き物ではないのだよ」 ああ、君が。 僕は心からそう思った。 「だから挫折もするし、弱音を吐く。だが、人は貪欲であり、だからこそ強くもあるのだよ関口君」 目の前にあった黒く細い影を優しく後ろに送られる。 「いつだって私が君の無真を祓う」 目の前が僅かに暗い影に覆われ、優しく、そして緩み無くその腕に抱きしめられた。 僕はその背に腕を回し、素直に頷いた。 「お帰り、関口君」 ただいま、中禅寺。 ‐了‐ 2002.06.24 加筆修正 2007.7.20 |
真無 |