伝う心 |
|
あの時、 ―――行くな! そう心から願った。 君が遠くへ行かぬよう。 強くその手を握り締めた。 君の表情は相も変らぬものだったけれど、私は心からの笑顔を浮かべた。 君が遠くに行かぬよう、私は強くその手を握り締めたのだ。 「京極堂、ちょっと散歩に行かないかい?」 手に持つ草書を不機嫌極まりない、いや当人にしてみれば至って機嫌のいい表情で眺めていたのであろうが、 その時を遮るように声をかけた。 誘った私には一瞥もくれず、梅雨明け前の湿気を宿した表情で京極堂が答える。 「私は行かないよ、1人で行ってきたまえ」 「こんなところで四六時中本に埋もれていたら君までカビてしまう」 「………」 京極堂は呆れているらしく、突っ込みも返さない。 何だか気まずさを感じたが、もう一度深呼吸する。 そして正直に打ち明けた。 「見せたいものがあるんだよ、君に」 そう言って彼をじっと見つめた。 京極堂はふうと溜息をひとつつくと、はすに、だがようやくこちらを見てくれる。 「何を見に行くと行くのだね?」 連ねられた字列を見るよう、私の事を見た京極堂。 その視線に私が危惧している不機嫌さは無いようだ。 「あ…あの」 安心感からか私は妙なところで口篭るが、それでも気を取り直して、京極堂に見せたいものの説明をする。 「坂の入り口の、その壁なのだけど……そこを一本左に入った小路に……あの」 無論、眩暈坂の入り口にある小路なのだが。 私は今朝方露に濡れていた深翠の植物を思い出した。 「ほう、それでそこに行って何を見せようというのかね?」 「とにかく、君に見せたいんだ」 というか、京極堂が気に入りそうな表現を連ねるのは三文文士の私には無理というものだ、だけどもその情景 をどうしても京極堂に見せたいから、強引に彼の腕を引いて、次にその手に持たれていた草書を取り上げ卓袱台 の上に置いた。 「今日はやけに強引なものだ…」 京極堂は失笑を浮かべると、すっと立ち上がる。 そして窓の外を見やった。 「まだ小雨が降っているよ。それでも出かけるのかね?」 私はちらりと窓の外の小雨を見たが、気にならない程度の降りなので何も答えず、そのまま彼の腕を引いて出た。 「傘は、このぐらいならいらないね?」 戸口で片手を空に向けていた京極堂がそう言うと、私は頷いた。 おかしな話だ、妙に緊張する。 空の向こうに少し晴れ間が見える。 「大丈夫だろう、すぐだから」 私はそう言って彼の腕を引いた。 そうして共に眩暈坂をゆっくりと下っていく。 雨の匂いが何よりも鼻につくが、それに混ざり壁に生えている苔の匂いも鼻に伝わってくる。 無言で私の背を歩く京極堂は懐にその両手をしまいこんで腕を組んでいる。 私はこの身を濡らす心地いい小雨に少し笑む。 そうしてゆっくりと流れる時間。 そんな事を考えながら暫く歩くと小路を左に折れた。 瞬間、目の前に広がる翠。 そこは一面、露に濡れた翠色だった。 雨に映える翠色が、目に優しい。 「これなんだけども……」 私は雨に濡れた蔦の葉を一枚拝借し、京極堂に見せる。 その正体は壁を伝ってその四肢を伸ばす洋蔦だ。 「ほう」 彼は懐にしまい込んでいた両腕を表に出し、その葉を受け取ると、一面に彩られた翠を見た。 「綺麗だろう」 私は何処がどう綺麗なのか、説明も出来ないくせにそう言うと笑んだ。 目の醒めるような、夏の彩り。 今朝、私はその翠に癒されたのだ。 小雨の中、眩暈坂を私は登っていた。 憂鬱な雨の中ふと、目の端に入った漆黒。 私は一瞬それに釘付けになり、それと京極堂を見紛えた。 そしてそれをよく見ると。 色濃い翠は僅か離れると、目に映る色を漆黒に変えるのだと、私ははじめて気が付いたのだ。 「……馬鹿馬鹿しいかもしれないが、これを君のようだなって思ったんだよ。今朝眩暈坂を登ってくる時、君が ここに立っているのかと思って勘違いして思わず立ち止まった」 「………」 京極堂は無言である。 だが、ちらりとこちらに向きなおると、またその翠に見入ってしまった。 自分の言ってしまった事に思わず苦笑する。 我ながら三文文士だな。 こんなんじゃ口説き文句にもなりゃしない。 京極堂は蔦をその手に取るとじっと見つめているようだ。 肩越しから見えるその動作に、私は一瞬苦笑を失った。 彼の肩越しから見える蔦が、ゆらゆらとその四肢を伸ばし、彼をその伝わりに取り込もうとしている様に見 えのだ。 幻? いや、陽炎立つほど暑い日差しではない。 思わず京極堂の掌をぎゅっと握る。 刹那、何かに驚いたのか彼は振り返った。 私は我ながら縋る様な目で、彼を見ていたに違いない。 彼は相変わらずの不機嫌そうな表情を浮かべて一言、そう言った。 「大丈夫だよ、関口君」 彼はもう一度一面の翠を見て私に振り返る。 「帰ろう」 その一言に私はこくりと頷いた。 小道を抜ける瞬間、京極堂は私の掌を握った。 「私はここにいるよ」 小さいけれど通る声でそう囁かれた。 「うん」 首をゆっくり縦に一振りし、自然に笑む事が出来た。 京極堂に手を引かれながら無言で坂道を登る。 少しだけ、思う所があった。 何時の間にか小雨は上がっていて、私は空を見上げた。 数日後、京極堂の家を訪ねると、家主に背中を向けた榎木津がラジオを枕に昼寝していた。 五月蝿くはないのだろうか……と一瞬思いはしたが、榎木津礼二郎である、そんな細かな事は気にしないだ ろう。 京極堂は相変わらず本を読んでいる。 一歩この足を居間に踏み入れた。 「あれ? 今日はエノさんがいる」 一種の気まずさを感じて、私は勤めて明るく振舞った。 「……ああ、この歳で誕生日の贈り物を貰ったよ」 珍しく聞きもしない事を呟いた京極堂は、そう言うと読んでいた本を卓袱台の上に置く。 そう言えば今月は京極堂の誕生月だ。 京極堂は2枚置かれた封筒の一つの中身を取り出して、私に差し出した。 一枚の中に写る京極堂と私。 カメラに目線は向いていないが、2人とも笑んで見える。 「これ……あの時の」 私は写真と京極堂を交互に見た。 「エノさんだ、仕事でカメラ片手に何かを追っている時に偶然撮られたらしいね」 そう言うと京極堂は忌々しげに榎木津を見る。 気になる一言が彼の言葉に含まれていた。 「何かを追っているって……一体何を?」 びくびくしている私に、京極堂はニヤリと笑った。 「蔦泥棒だよ」 「えっ!?」 私は素っ頓狂な声を上げた。 冷静に話を進める京極堂は、私のその声に何のリアクションも返さない。 「あの蔦は珍しい蔦らしくてね、秋には紅葉して赤い色になるのだそうだよ。それを知った園芸業者が昼な 夜なと蔦を盗みに来るのだそうだ」 私はその話に真っ青になりながら榎木津を見た。 「大丈夫だ、馬鹿猿。葉っぱ1枚なら盗みにもならん…第一花盗人は咎めてはならない、これは世の中の条理と 言うものだろう」 榎木津はそう言うと、ごろりと寝返りを打ってこちらを見た。 どうも寝ていなかったらしい。 静かに笑みを浮かべる榎木津は何も聞かない。 否、聞かずとも彼は知っているのだ。 この時の私の思いも、京極堂の思いすら。 この眼差しから伝わっている。 「折角の誕生日に誕生日だと忘れて何をしているのかと思えば……まあ、僕は構わんがんね」 居間に沈黙が走った。 ラジオの不明瞭な音声だけが、耳につく。 私は窓越しに青い空を見た。 そして京極堂を見る。 京極堂はもう一つの封筒を私に差し出した。 「同じものが入っているそうだよ」 「うん」 私の手を取ると、そっとあの日の翠葉をその手に添えられた。 京極堂は静かに笑む。 逆光でその表情を読み取るのが難しい榎木津が、少し笑ったような気がした。 「梅雨が明けたそうだぞ、京極堂、関君」
-おしまい- 加筆修正 2007.7.20 |
|
イラストを下さったのは海月さんです。 手を繋いでいるのが隠れているらしいのですが、見えない所がまたいいです。 全体的にまったりなお話になってしまいました。 こんな京極堂、いないってな…と言う言葉がこれを書いている時の私の脳内を満たしておりました。 |