□ 花 暦 □ by 海月 |
ねぇ、花が咲いたよ。 君と歩いたあの並木に花が咲いたよ。 「先生、今年の花見はもう終えられましたか?」 「………?………花見?」 落とす寸前で何とか間に合った原稿を鳥口君に手渡しながら夢現の世界を漂っていた僕は、鳥口君の言葉に頭の片隅で何かがちかりと光った。 何かを忘れてやしないか? そんな不安に襲われる。 「この間大将達が花見の宴だって言ってましたけど」 「………これに掛かりきりだったからね」 「今週末までぐらいだって言ってましたよ」 「今週末って明日じゃないか………今年の花見は諦めた方が良さそうだね」 原稿ができあがった今はただ眠りたい。 それ以外考えられない。おそらく、深い眠りは明日まで僕を捕まえて放さないだろう。 花が咲いたら………。 帰っていった鳥口君を、寝床から見送るという失礼極まりないことをしてじわりと布団に沈む。 とりとめないことが眠る前の頭の中をゆるりと回る。 まるで幻燈のように。 仄白く、けれど薄紅がかって、陽ざしに揺れる花びら。 榎さんなら日本人なら花見をせずしてどうすると怒りそうだ。 いや、きっと怒って青々と繁った葉の下で酒宴を開くだろう。 「………たぶん、避けられないなぁ」 京極堂は………京極堂は?。 かちりとパズルのピースがはまる。 僕は目を見開いて、布団に足を取られながらも飛び起きた。 そして、靴を履くのももどかしく走り出した。 君と歩きたい。花降る陽ざしの中を君と………。 いるはずがない。 京極堂がいるはずがないのに、僕は何をしているのだろう。 息を切らせて。 京極堂に会いに行くのならここへ走ることは無意味なのに。 すでに花は散り、薄紅色の葉を茂らせているというのに。 毎年、他の樹々が散るのを見届けるように最後に咲く樹の前に辿り着いて、いるはずがない人を探す。 他愛のない約束。 けれど、大事な約束。 息切れが激しく、咳き込みながら樹の根本に座り込む。 「………っ」 桜の香りが肺を満たしていく。 なのに、君がいない。 花は咲いたのに。 泣きたいのに、笑いたくなって引きつった呼吸を繰り返した。 「ようやくお越しかね」 頭の上で僕の求める声がした。 樹の陰から滲み出るように京極堂が僕の目の前に立つ。 「京極堂っ………あの、約束」 「思い出すのが遅くないかい」 「ごめん…」 申し訳なかったと思うのに僕の顔は笑みを浮かべてしまう。 少しは反省というものをするべきだろうと軽く小突かれてまた笑う。 「あの時の台詞を君にそのまま返すよ」 …花が咲いたというのに君は顔を上げずに俯いたままじゃないか。行こうよ、花を見に…。 京極堂の行った言葉に聞き覚えがあった僕は、もう笑いを止めることはできなかった。 「僕は原稿用紙で、君は本。二人とも俯いてたんだね」 盛りを過ぎた花はどこか寂しげに見えた。 去りゆくものを惜しむかのように物憂げで、けれどこれからの季節を迎えるように力強く命を宿らせている。 がくがくと運動不足に震える足を叱咤しながら、立ち上がれば京極堂が苦笑を浮かべて僕を見ていた。 少しだけ近くなった花に呼吸を整えるのではなく深く息を吸い込む。 「花の下で待つのが君でなくて……」 「え?」 「花冷えする前に帰ろうかと言ったんだよ。風邪をひかずにはおれない御仁がいるからね」 「否定できないところが辛いところだね」 「全くだ」 じゃれ合うような歳ではなくなったけれど、軽口をたたける。 馴れ合うようなことはないけれど、どこかで繋がっている。 ねぇ、花が咲いたよ。 君と歩いたあの並木に花が咲いたよ。 花が咲いたら、君と歩きたい。 花降る陽ざしの中を君と。 □ 花 暦 終 □ □ おまけ □ 花が降る。 君が願ったように花が咲き、降り注ぐ。。 「待ちぼうけをくらわせるとはやるじゃないか」 口にしても、花だけが聞く独り言。 今は来れないと知っているのに、それでもここへと足を向けてしまった。 自嘲する笑みが浮かんでも、ここから離れられない。 他愛のない約束。 けれど、大事な約束。 諦めの悪いと一歩を踏み出したとき、慌ただしい足音を聞いた。 あり得るはずがないと諦めにも似たため息を覆す君の姿がそこにあった。 隠れる必要もないのに、咄嗟に樹の陰へと身を寄せた。 力尽きたように木の根本に座り込んで今にも泣き出しそうな気配が伝わってくる。 皮肉の一つでもと口にしたのに、君は笑うばかりで。 柄にもなく拗ねているのがばれたのかと思えば、そうでもないらしい。 ああ、かなわないね。 花の陽気のせいだと言うことにしておこうか。 |
海月さんちで踏板30000Hit記念にからいただいた「花暦」。 はなごよみと読むべきか、はなのれきと読むべきか。 桜は教えてくれます。 約束が儚いものだと、ただ、愛しきものだと。 私の中でも、ぱつん、とパズルがはまりましたよ。 ありがとう御座います(嬉) |